リトル大阪があった 大阪寿司は江戸の方言 東京土着民にしか通じない(6)
2025-05-30


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知人行きつけのとんかつ屋でヒレ海老を食べながら、135年前、中央区の日本橋人形町にあった「大坂すし」について話していた。すると、昔の東京に詳しい大将が話しかけてきた。
「聞いていて思ったんですが、あの辺りには堺町とか大阪町とか大阪にちなんだ地名がありました。それが関係しているんじゃないですか」。
 確かに界隈の地図を見ると、堺町や元大坂町がある。移転する前の吉原があった場所は元吉原と呼ばれ、跡地には謡曲から取った高砂町、住吉町、難波町がある。本を正せば、その謡曲に出てくる高砂や住吉は兵庫の地名、難波は大阪の地名だ。
 家康は秀吉の命令で、父祖の地・三河から滅亡した北条氏の領地だった相模国、武蔵国など関東八州に転封させられた。そして、北条氏の居城があった小田原ではなく、あえて未開の地・江戸を新たな本拠地とした。築城の名人・太田道灌が建てた千代田城(江戸城)こそあったが、たぬきしかいないような所だっただろう。現在の千代田区や中央区に相当する城の東側は海に近い潮干潟だった。この広大な湿地を埋め立ててできたのが今の銀座や日本橋だ。
 幕府が開かれると、大名屋敷なども造られ、工事に伴う職人や労働力も流入し、江戸の人口が爆発的に増えた。しかし、たぬきしかいなかったような場所だから、大量の物流を支える商人がいない。そこで、家康は地代免除の特典を与え、商人の出店を奨励する。堺や近江などの商人たちが続々と日本橋に集まった。
 元大阪町には船着き場があり、大阪からの廻船がしょっちゅうやってきていた。町名は大阪の商人が移り住んで拝領したためという説もある。堺町も同様。
 家康のもくろみ通り、日本橋一帯は大商業地帯、歓楽街として発達する。移住してきた大阪系東京人によって生まれたリトル大阪だったと言える。
 江戸時代後期、江戸の庶民のファーストフードである屋台の握り寿司が生まれる。江戸でも、寿司の王道は関西から伝わった押し寿司、箱寿司などであり、江戸前の握りは邪道扱いだった。
そのような中で、大阪系東京人に本場のすしを食べさせるというブランディングが「大阪寿司」の成立だと思う。
 前々回、江戸前老舗三代目の言葉。「東京にもってきたからこそ『大阪ずし』」。
 自分たちのルーツを忘れないための元大坂町や堺町であり、江戸前への対抗心からの命名ではなく、「大阪寿司」はノスタルジーだったのだろう。

■人形町の歴史
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■清心丹・創業の地 〜江戸期の日本橋・元大坂町
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■日本橋@074】元大坂町
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■【日本橋@065】堺町
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■【日本橋A】難波町
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◆いつから使われ出した?「大阪寿司」は東京土着民にしか通じない江戸の方言(3)
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◆残る老舗3店 「大阪寿司」は東京土着民にしか通じない江戸の方言(4)
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◆茶巾は東京生まれ 「大阪寿司」は東京土着民にしか通じない江戸の方言(5)
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