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「古文も現代国語と同じ文学作品であり、そこには文学するという人間の共通の営みが見えてくるはずだと思っていた。しかし、私のそういう思いが君たちに伝わっていなかったとすれば考え直すべきだろう」。
「古文は役に立たない」。「古文は廃止するべき」。そんな意見や質問をよく目にする。
自分自身、「古文をなぜ勉強するのか?」という質問に答えたことがある。
来日したニコラス・ケイジを英語が得意な帰国子女の局アナがインタビューしたときの事を例に挙げて説明した。
<武士道や侍が大好きなニコラス・ケイジが「自分はFIVE RINGS(*)に大きな影響を受けた」と言ったらポッカーン。女子アナは固まってそれ以上会話を続けられなかったため、その話題は終わり。国際的な恥さらしでした。
森高千里・作詞の「勉強の歌」に「英語だけでもまじめにしておけば 今頃 私はかっこいい国際人」という歌詞があります。しかし、英語ができる日本人なんていくらでもいますが、英語ができるだけでは国際人にはなれません。外国人と仕事や交流をするのに「私は英語は得意ですが、日本の歴史や伝統、源氏物語とか古今和歌集とか全く分かりません」では英語ができるサルと変わりません。世界を股にかけて活躍する国際人には、他国の人に自国の歴史や伝統、文化を語れる教養が求められるのです>
しかし、この本を読んで自分は質問者の気持ちが全く分かってなかったと反省した。
自分は、古文とはある時代の日本人の心と生き方、「生活と性格」を知ることだと思っている。
でも、「古文なんて何の役に立つのか」と質問している人は、古文とはもう誰も使ってない古い日本語の単語や文法を暗記することだと思っているのだ。
これでは質問と回答がかみ合うわけがない。そのことに自分は全然気づいていなかった。
そして、この教諭がやった源氏物語の授業。「源氏物語を書く中で作者の時代を見る目が変わっていく。どう変わったのか、なぜ変わったのか。それをこの授業でやる」。もう故人だと思うが、この授業ぜひ聞いてみたかった。
「第6部:授業改革運動の到達点 第2章:授業改革の試み 2.古文授業の大改革」よりちょっと抜粋引用します。全校集会で配られた「古典を読むことをどのように考えるか」という文書だそうだ。
人間であることにめざめた人間は、人間について考えずにはいられない。われわれには、人間および人間に関する諸事象について、その本質をきわめ、それに対する洞察力を深めたいという切なる内的要求があるのだ。中でも文学ほど人間と分かちがたく結ばれ、人間のありとあらゆる面を精細にうつし出しているものはないのであろう。われわれが人間について、そして自己について思いをめぐらす時、文学はかっこうの対話の相手として、われわれの前に登場してくる。
しかし、その際に近代のもののみに対話者を限定するのは、明らかに片手落ちであろう。−(中略)− われわれは両方の作品を、同じ眼でみなくてはならない。そこではじめて、われわれは、人々は特定な歴史的・自然条件のもとに、いかに生きたか、彼らが愛を死をいかなるものとして観じたか、そして、「文学する」という人間の営為は、いかにして豊穣な、あるいは卑小なものになって行ったか等について、きわめて全体的な視野をもち得るのである。そしてわれわれが歴史の道程の中に、獲得して来たもの、あるいは避けがたく喪失させられて来たものを確認することができるのである。
「従来の古典学習が言葉の理解のみに、力を入れられて来た傾向があったことは否めない」と反省し、「われわれは、それ(古語や古文法の知識など)が不可欠なものであっても、決して究極の作業ではないことを確認すべきである」と結んでいる。名文だと思う。
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