雫石事故,真の被告は誰か 空自幹部からの手紙 最後の社会部記者鍛治壮一
2020-03-29


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1971年、岩手県雫石の上空で、全日空の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が衝突した事故。その刑事裁判の一審判決が言い渡された75年3月、鍛治壮一は見知らぬ戦闘航空団副司令からの手紙を受け取った。衝突機に乗っていた空自の訓練生と、編隊を組んで指導していた教官の2人が有罪となった判決。その判決の日の夕刊1面に載った解説への切々たる思いを訴える手紙だった。
 専用ブログはこちら → 第11回 大勲位は何もしなかった 変わらぬ責任取らぬ政治の怠慢 予測された航空機事故
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○1975年3月11日夕刊1面
本当の被告はだれか 航空路再編を放置 防衛庁・運輸省 背を向ける
 雫石判決は二人の自衛隊パイロットを有罪とした。ホッとした表情をみせる全日空と対照的に「上官の命令に従った市川訓練生だけは無罪にしてほしかった」と防衛庁幹部は深刻である。だが、百六十二人の死を招いた惨事は、起こるべくして起きた。この取材を通じ、事故直前、空中衝突の危機が次々と叫ばれ、またその声が無視されていった事実を見てきた。法廷は、主に二人の戦闘機乗りの被告の責任をめぐって展開され、この事故の背景、本当の責任者を裁くことはできなかった。この裁判の被告席に座るべき者は、だれだったのか。
 雫石の大惨事は予知されていた--。“空中衝突の危機が迫っている”と叫んでいたのは、ほかならぬ航空自衛隊だった。
 事故の起こる五ヶ月前、航空幕僚幹部(空幕)は「飛行安全監察関連報告」という分厚い報告書をまとめた。ニアミス(航空機同士の異常接近)と空中衝突の可能性、防止策のすべてである。このため航空自衛隊は、その前年六ヶ月をかけて、空中衝突防止の特別監察を行った。このとき、全パイロット約千二百人からアンケートをとったところ、「ニアミスでヒヤっとした経験」は、なんと三百七十七件にのぼり、毎年急増していることがわかった。
 そこで「航空路を飛んでいる民間機と、訓練空域へ出入りするため航空路を横断する自衛隊機との間に異常接近や空中衝突事故発生の公算が増大しているので……抜本的に航空路の再編成が必要である」と指摘し、航空自衛隊の内部規制を強化するとともに、民間航空を含む日本の空の問題として@航空路、訓練空域の再検討Aニアミス防止のため地上レーダーで全空域のコントロール、などを提案した。
 この“緊急告知”は、空幕長が当時中曽根防衛庁長官に詳しく説明、一刻も早く運輸省と折衝するよう訴えている。
 さらにその前年(四十五年)九月、総理大臣も出席し、防衛庁で開かれる高級幹部会合で、西武航空方面隊司令官が“空中衝突は時間の問題だ”と有田長官に報告している。制服の最高スタッフが年一回、当面する問題を長官らシビリアンに進言する場であった。
 これら“緊急事態”を予告する報告に、防衛庁の長官以下幹部はどれほど真剣に取り組んだろうか。政府は何をしたか。--防衛庁と運輸省の話し合いは実を結ばなかった。具体的には何もしなかったのである。
 政治や行政の責任回避は、そのまま裁判の中に持ち込まれた(被告は防衛庁でなく、二人の自衛隊員個人だったが)。
 争点は「ジェットルートの保護空域にF86F戦闘機が入った」「運輸省航空局は当時、ジェットルートに幅があると、防衛庁に正式にいってきていない」「いや、反対に全日空機の方が訓練空域を飛んでいたんだ」……。法廷の駆引きは、それも当然だろう。しかし、事故の背景は別のところにある。そして、それは未だ完全には解決されていない。旅客機の運航と戦闘機の飛行は全く異質である。

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